「ハイツが建つまで4」の続きです。
1995年(平成7年)1月17日阪神淡路大震災。
この日は偶然にも我が家の、リフォーム開始日でした。
前日に壁の構造を観る為に、少し外壁を削り取っていました。
震災の日、我が家を見たご近所、親戚筋は震災の被害と思われて「被害は大丈夫?」の声を多数寄せて頂きました。
当日テレビで、阪神間の悲惨なテレビを見て、リフォーム業者に「家の資材を神戸に持って行って使って下さい!」と言いましたが、それぞれに、復旧材料が違うので、そっくりこの資材を持って行っても役に立たないので、まずはお宅を完成させます。と言われました。
このリフォームは元々、この地域に下水道が通り、水洗トイレになる事に便乗したのが発端です。
今まで1階に1つだったトイレですが、男3人(主人+息子2人)がいつも1つのトイレを取り合い、たまに隣で借りる?と言う程でした。
どうせなら、2階にもう1つトイレが欲しいね。から始まりました。
まだ若い30代での事、他所様はマイホームを建てる為に頑張っています。
私達は新宅と言う、ラッキーな新生活、おまけに共働きのスタートなので、貯金もまずまず順調に出来ており、お金の無い事の怖さを知らなかったのでしょうね。
当初は4~500万円の予算が、あれもこれもと追加しました。
2階部分の増築は1階より1.5倍は高く、結局総額900万円のリフォームを行いました。
その時の事は、今となっては覚えていませんね。
確かに陽の当たる、明るい居間にはなりました。
でも食料品を買って帰っても、2階の台所まで、重たい荷物を運ばなくてはいけません。
子供たちが家に居た時は、玄関から「荷物有るよ!」の一声で飛んできて、2階に運んでいってくれていました。
でも今は、主人だけです。
家に居れば当然、運んでくれますが、週5日今もシルバーで働いているので、いつも家に居るわけでは有りません。
膝と脹脛に痛みを持つ私には、今になればつらい作業ですね。
後悔ばかりも前向きではないので、まぁ20年余りの間、明るい部屋で生活出来た事は良しとしましょうか。
昔から、家は3回建てないと満足した物は建たないと言われていますしね。
もうこの歳では、家を建てる事も出来ませんが、また1階に拠点を置いた、リフォームは有りかも知れませんね。
次回は勝手に決めず、子供達にも相談しようとは思っています。
話を2軒の借家に戻しますね。
この時はまだ、母の譲り受けた借家の事は、まるで私の頭の中に、浮かびませんでした。
そもそも私の生活の中に、神戸の借家はまるで関係ない物でしたからね。
ようやく、零細企業の社長さんに電話が通じたのは、震災後、1週間近く経ってからみたいです。
2軒の借家はまさかの
「半壊!」でした。
続きは明日「ハイツ その6」へ