「ハイツについて・その1」に書いた続きです。
母と私が共同で所有しているハイツですが
まず元々は、母の父即ち、私から言えば祖父が所有していました。
その頃はもちろんハイツでは無くて、50坪の土地に2軒の借家が建っていました。
神戸の王子動物園の近くです。異人館をイメージしてもらえれば判る様に
坂の多い街並みで、段々畑のように家が立ち並んでいます。
2軒の家は戦前の建物で、今では聞きなれないでしょうが「地代家賃統制令」が付いている家でした。
地代家賃統制令とは、過去に実施されていた日本の勅令で、地代と家賃の額の値上げを統制し、国民生活を安定しようとしたものです。
「統制令」が付いているので、その近所の貸家と比べると半分以下若しくは、3/1の値段でしか貸せない家でした。
この「統制令」は1986年12月31日まで続きました。
阪神・淡路大震災が1995年なので震災の9年前まで続いていました。
昔(8~90年前)は、土地の価値はそれ程では無かったのか?
それとも土地は先祖から子孫へ受け継がれる財産で、安易に売る対象では無かったのか?その当時の事は判りませんが後者の説の方が近いのでは・・・?と思います。
その当時は地代を払って、その上に家を建てるのが一般的でした。
バブルがはじけて、土地の値段が下がったよ言えども、やはり土地の価値は絶大ですからね。
そして、この2軒の借家を祖父が母に生前贈与としてくれました。
他にも土地(農家)や借家が有ったとはいえ、太っ腹な選択だと思います。
母は6人兄弟の長女です。兄弟達(妹4人弟1人)
は皆それなりの資産家に嫁いでいましたが、母だけが普通のサラリーマンで父が安月給だった事も有り、私の生家も祖父が建ててくれた程です。
「親戚付き合いも、釣り合いが取れなくては疎遠になる。」と考えたようですね。
昔は家族の繋がりや絆が深く、自分の子共達を近くに、住まわせたかったのでしょうね。
神戸にはもう1軒借家が有りましたが、こちらは末の妹が貰いました。(こちらも生前贈与です。)
母とは18も歳が離れており、それだけ父母と早く別れなけらば行けないから、と言う理由でしたね。
この妹を両親2人共、溺愛していましたね。
(結局甘やかされ過ぎて、親の介護は一切しない、親不孝娘でしたが・・・。)
話が逸れましたが、2軒の借家はそれぞれ、2階建てでした。
しかし大きさに違いが有り、大きな借家の方は代々社長が住む家でした。
でもこの家は訳有りで、必ず奥様が早死にする家でも有りました。
家には家相が有ると,よく母が言いっています。
家の近くにも、祖父が建てた借家が、8軒有りますが家によって、夫婦が離婚する家、新しく家を建てて転出する家、郷里に帰って行く家など・・・。
不思議な位、同じパターンが続きます。中古の家を買われる方は前人の方の売る理由も考えた方が良いでしょうね。
続きは「ハイツ その3」へ